はじめました!

by Kenta Shimojima : @shimojik

情報が重要な世界にいるからこそ、情報はオープンに

最初に1つ断っておくと、
情報をオープンにするかどうかというのは、コミュニケーションの仕方の違いという部分を含んでいるので一概に良し悪しの問題として捉えられないこと、
ここで言っている"情報"というのはあくまで仕事に関するものであるということ、
という2つが前提での話。

さて、本題。

いろんな人と話をしたり仕事をしたりしていると、情報の扱い方には大きく分けて2つあって、ここには大きな溝があるなぁと感じることが少なくない。

1つは出来る限りオープンにする、つまりあらゆる情報に全員がアクセスできる状態にするという方法。
もう1つは担当する部門または人ごとに持っている情報を(意図的、または意図的でないに関わらず)制限し、A→B→C→Dと情報が流れていく中で伝達する人たち、もしくは担当する人たちが情報取捨選択して伝えていくという方法である。

タイトルにもあるように、僕はオープンである方がうまくいくという立場。

例えば、あるプロジェクトをスタートすることになった場合、それまでの経緯や理由などいろんな情報が紐付いている。
情報がオープンでない場合は、この"いろいろな情報"の部分、文脈部分が欠けてしまう。

文脈がないと、その事実や決まりごとだけから考えて正しいかどうかを判断し続ける必要がある。
それでいいなら、世の中定義と定理だけでいいんじゃないか?

なにかうまく回らなくなっているときは、"いろんな情報"の不足であることが多い。
“いろんな情報"というのは潤滑油の働きをする。

ここで言っている情報の共有は、民主主義の話ではない。
つまり、情報を共有することで、全員が話し合えるようにすべきという話ではない。

あくまで、動くためにはコンテキストは重要だという話である。

そういう意味で、コンテキストが共有されない場合、
情報を受ける側の場合には、受ける側が判断できないケースに遭遇するので、動きにくかったり、そもそも動けなかったりするという問題が起こりがちだ。
これは逆の場合も同じで、情報を共有したときにその情報から取捨選択されて伝わる場合には、情報の流れた先で停滞や問題が起こる。

そのため、情報がオープンでない場所では、ロスやストレスが多すぎるという認識を持っている。
(日々幸せに過ごしたいですよね?)

だから、情報がオープンな場がいいなぁと日々思っている。

しかし、情報がオープンかどうかをぱっと判断するのは難しい。

で、ちょっと難しい話だが、最近は
情報がオープンである
→コンテキストなどのあらゆる情報を大事にしている
→情報の尊重
という発想で、情報を共有するときに、引用をつける習慣があるかどうか?というのがひとつの判断基準になっている。

つまり、例えば僕がアイデアなり知識なりを10個共有した場合に、その人はその情報に僕からの引用だという情報を10個全てに加えるか?ということだ。
もちろん、それは自分だけではなくて、他の人に対しても同じ。

情報の尊重をしている人は、引用はつけるし、ましてやその情報を自分からの情報にすり替えない。
その一瞬で得られた情報には、提供者のいろんなコストやエネルギーが含まれていることを当たり前に知っているからだ。

逆にいうと、
このことが分からないと、情報を粗末に扱ってしまうので、その結果、多くの情報がコミュニケーションとともに失われてしまう。

まぁここらへんは、誰から教えてもらったか忘れたという場合や、考えているうちにその人から出た情報になってしまったというケースもあると思うので、そこまでかたく思っているわけではなく、あくまで例えではあるが。

年度末で、いつもとは違う人と話をしたり、話を聞いたりする機会がちょっと増えて、情報の扱いはパカっと2つにわれてるなーと感じました。

情報が重要な世界にいるからこそ、情報はオープンに。